●憂いている社会の問題をひとつ挙げてください
処理された汚染水の海洋放出
●希望を感じる瞬間を、いくつでもいいので挙げてください
一人デモでスタンディングしている人を見かけたとき
●いくつかの質問へのまとめ
以前、ある雑誌の企画がきっかけで、自分の家の部屋をウィリアム・モリスがデザインした壁紙やカーテンで統一したことがあります。彼のデザインが好きだったからですが、いざ購入を決断するとなると、自分でも驚くほどためらって、やっぱりやめようと何度も思いました。
それはなぜか。
私はモリスの強い個性が好きなのですが、しかし強烈なだけに生活の場にそれが充満するとなると、息苦しいものになるのではないかと、そして自分の個性が影響を受けてしまうのではないかと心配したんですね。日常生活が成り立つのかと。
けれど、実際やってみると、驚くべきことに、モリスの個性は生活の場では自分を主張することなく、エネルギーとなってこちらを励ましてくれるようなのです。特にこちらが疲弊しているときにはそれがわかります。力強いパターンの繰り返しが、こちらの損なわれた生命力に尽きせぬパワーを送り出してくれるようなのです。これが自己主張のある芸術を鑑賞することと、力のある民芸と生活を共にすることの違いなのだと肌で実感しました。
今回鹿児島さんの御作を拝見していて、一見物語性に溢れているように見えるのに、いざここからお話を、と対峙すると、なぜか物語が見えてこない——何度トライしても、です—そのことに焦りました。
それはなぜだろうと考えました。モリスの作品のことを思い出し、やっと私なりの答えが出たように思いました。それは、作家は作品を図案として確立させるために——というか確立させるためには——物語を封じる術をかけなくてはならなかったのではないか、ということでした。
物語性というのは要するに、不安や不穏を内包しつつ、先へ先へと転んでいく力そのものです。つまり静ではなく動のパワーです。そのパワーが大きければ大きいほど、人はその物語に惹きつけられます。けれどそれではそれとともに生活していくことは難しいです。人は他に魅入られながら手元のルーティーンをこなすことはできません。魂を抜かれているようなものですから。
中世に魅かれていたモリスは、自分の図案に「時の魔法」のようなものをかけていたのではないか。どんなに心惹かれても、この絵はもう動かない。もうこれは終わったこと、と見るものを落ち着かせるような。
鹿児島さんの御作にも、それと同じ「動かなさ」を感じたのです。物語をつかみ出すための尻尾というか取手(?)のようなものがどこにもない、ツルツルして掴めない、そういう感じです。
けれど、これにはモリスと同じ術がかけられている、と気づけば、物語作家としてはやることは一つです。術に外れてもらうしかありません。
どのように? というのは言語化の難しいところなので割愛しますが、とにかくそのおかげで、蛇は「私はここにいる」、と手を(頭を?)挙げてくれましたし、ユニコーンは「ツノについて思うところ」を語ってくれました。
そしてその「物語」は、最後に鹿児島さんが新しく創作してくださった絵皿で、ほんとうに「完結」し、新しい術がかけられたように思いました。
鹿児島睦さんに、苦しくも楽しい、充実した創作に関わらせていただいたこと、心から御礼を申し上げます。
今回貴重な機会を与えてくださったブルーシープの皆さん、それから、この絵本を手に取ってくださった皆さんにも。
ありがとうございました。